私は現在、ベトナム語教師として、そして日本語教師として、二つの言語教育の現場に立っています。
どちらも本業であり、もちろん、どちらにも全力を注いでいます。
そんな私には、長年大切にしている信念があります。
それは、「日本語教師であるならば、自分の学習者の母語を学ぶべきだ」ということです。
日本語を学ぶ学習者にとって、当然ながら日本語は「外国語」です。
彼・彼女らにとって、日本語の文法や語順、敬語表現などは、母語とは大きく異なり、理解に苦しむ場面が少なくありません。
日本語を教える私たち教師は、つい「これはこうだから覚えて」と説明しがちですが、それでは学習者のつまずきを見落としてしまいます。
そもそも私は、「ベトナムで暮らしたい」という思いから、その手段として日本語教師という職業を選び、ベトナム語の勉強を始めました。
在越25年目となる今でもベトナム語の学習を続けていますが(その割には下手くそ!というのは横においてください!)、学べば学ぶほど、ベトナム語と日本語の違い、ベトナム人学習者がなぜ特定の日本語表現でつまずくのかが、手に取るように分かってきたのです。
例えば、ベトナム語には過去形や未来形のような時制の変化があまりありません(実際にはありますが、「昨日」とか「明日」とか、過去なのか未来なのかわかる言葉が文中あれば、文そのものの時制は省略できてしまいます)。
そのため、日本語の「〜ました」「〜ている」などの動詞変化を誤る学習者が多いのです。
また、語順も大きく異なるため、「日本語の語順がなぜこのようになっているのか」を丁寧に説明する必要があります。
こうした気づきは、私がベトナム語を「学習者」として体験したからこそ得られたものです。
わからない、発音できない、文法が頭に入らない……。
私自身がそうした“できない側”を経験することで、学習者の立場に立った授業ができるようになりました。
さらに、学習者の母語を知ることは、学習者との信頼関係を築く上でも大きな武器になります。
私はベトナム語で冗談が言えるので、自然とベトナム人学習者との心の距離が縮まり、学習者も積極的に日本語を話そうとしてくれます。
言語だけでなく文化や価値観への理解も深まり、教える・教わるの枠を超えた交流が生まれます。
もちろん、日本語教師が学習者の母語を完全に習得する必要がある…とは言いません。
様々な国籍の人が集まるクラスで教えていて、皆の言語を学んでなどいられない先生も、たくさんいらっしゃるでしょう。
しかし、いろいろな言語のつまみ食いでもいいと思うのです。
少しでも学習者の母語に興味を持ち、学んでみることで、見える世界は大きく変わるはずです。
日本語教育に携わる者として、自らも常にベトナム語を学び続ける姿勢を持ちたいと、私は日々感じています。